読後感想文〜書評show〜

フィクション大好き!こよなく本を愛するLULUがありのまま、感じたままに本を紹介します。好きな作家は、吉田修一さん、津村記久子さん。

森茉莉さんは森鴎外の娘さんで、ウィットに富んだ文章、お嬢様としての経験からくる豊かな知識を詰め込んだエッセイが魅力。小説は今回初めて読むことになる。
 

この「恋人たちの森」は表題作を含む全4編。全体的にこの物語を覆うのは決して幸せではない恋である。

 


まずは一つ一つの物語を紐解いてみる。

1.ボッチチェリの扉

田窪というかつて隆盛を極めた豪邸に由里(ユリア)が間借りし始めたところから始まる。
財政に窮したのか、女主人は空いている部屋をいくつか間借りに出し、そこに棲みつくのはやや難のあるものばかり。

田窪家には、ヒステリックで高圧的な絵美矢夫人の他に、いわゆる引きこもりのような生活をしている美少年だが寡黙な次男沼二の他に、少女から大人の女へと成長していこうとする次女の麻矢がいた。
絵美矢夫人は傾きかけている田窪家を救う最後の望みは、麻矢の結婚であると躍起になっている節もある。

その麻矢は母の願いを知りつつも、自身の好奇心と想いには勝てず、1人2人と経験を重ねるたびに女としての魅力を開花させていく。

2.恋人たちの森

見目麗しい美貌の十代の青年パウロを見初め、恋人にしているフランス文学助教授のギドウ。
ギドウからの施しで不遇な状況を脱し贅沢な暮らしにその魅力を開花させたパウロは若者らしい好奇心に満ちた体を持て余しつつある。露呈してはならない秘密の関係は、カムフラージュとしてお互いが持つ別の恋人からの疑惑によりそのバランスが崩れ始める。


魅力に満ちた2人の男に関わった女の、悲しい結末とは。

3.枯葉の寝床

三十代半ばのギランは両親の遺産と助教授や書物の収入で優雅な暮らしをする男。
その財力と余裕で、十代の頃に拾ったレオに何でも買い与え恋人として贅沢にさせていた。

そんなレオがオリヴィオという男のサディズムに触れ徐々に自分の中の欲望に気づき始めた頃から、自分から離れていく未来を恐れレオをさらに束縛していくギラン。
レオの中に息づくマゾヒズムを感じながら、ギランがレオに捧げてきた様々なものを思うとき、彼の胸に去来するものは何か。

4.日曜日には僕は行かない

有名作家である杉村達吉と美貌の愛弟子である伊藤半朱(ハンス)。
師弟を超えたただならぬ関係の色を感じながらも、半朱はまたとない出会いで恋心を受け止める他に考えがなかった与志子と婚約した。
それ以来半朱の心持ちもあって次第に距離が遠くなった2人だったが、ふとした再会から達吉に説得された半朱は相反する想いを抱えながら、与志子と婚礼の準備を進める合間に達吉とも再び会うようになる。

耽美小説とBL

ストーリーを読むとわかるように、1〜4までの物語で男性同士の恋愛いわゆる耽美小説と分類されるものは、2〜4の三作である。
 

そこには耽美小説では馴染みとされる2人の関係性が見て取れる。


1人は優雅な生活をしているいわゆる地位の高い人間であり、その相手とされるのは年下の美少年。その仲は決して他人には漏れてはならず、あからさまに恋人のような暮らしをしている2人だけれど、おおっぴらにその関係を暴露するものではない。時には異性の相手がいる場合もある。


オープンにできないゆえの悲劇があり、苦悩や欲望もそれに由来することが多い。そして永遠という言葉が介在しない関係性が否定的な結末へと向かう要因になっているようでもある。


裕福な経済事情が恋人を囲うことを許し、それに応える形で寵愛を受けるという2人には見るからに危うい取引がされている。


これからの可能性を存分に秘めた未開花の美少年と、中年に差し掛かった世間的には常識人という組み合わせは社会の目から逃れなければならない運命とともに、悲劇的な要素を常に含んでいる。

そこには現在のBLと呼ばれるジャンルにある初々しい恋愛ストーリーや、互いを認め惹かれ合うという明るい青春物語は含まれない。


全体的に、耽美というジャンルには重厚で背徳的な匂いが漂うのだ。


もともと耽美小説とジャンル分けしたものがそのままBLと名を変えたとする考えもあるようだが、その創作要素には陰陽と分かれるほどの差があるように思う。

この小説に見る耽美というジャンルについて

BLは商業寄りの言葉とされることが多く、そこには前身とも言える「やおい」も関係してくるように思う。
 

「やおい」は「まもちもみもない」と当時の作品の題名に引っ掛けて作者が自嘲をこめて言い始めたもので(作品を批評する時に悪い例として用いられていた言葉とされる)、これは男性同士の恋愛物語を生み出す上で一定の役割を果たした言葉と言える。


2000年代初頭から、Boy's Loveの頭文字を取って名付けられた「BL」がより認知度の高い名称として広く使われるようになって、今は一定の認識のもとにより広い層に受け入れられている。


そう思うと、耽美をそのままBLに移行というのはやや強引かなと思うのだけれど、時代に即して文学も形を変えていくというのであれば、耽美は男性同士の恋愛の濃いところにスポットを当てたというよりは、さまざまな愛の形の「苦悩」を表す一つの手段として用いられたような印象を受けた。実際に性的な描写に規制のあった頃に、男性同士のものならば許されると言った時代の抜け道の表現だったとしている記述もある。


あくまでも苦悩の対象は体裁や社会的な事情によるもので、愛そのものの成り立ちにはさほどの疑問は抱かせていない。今も昔も当然にあった恋愛物語として、悲恋の結末を自然に描きやすいものとして取り入れられたような感じもある。


若い愛人を金銭的にも精神的にも恵まれている年上が囲って溺愛する、男女がどのパーツになったとしても成り立ちそうな組み合わせは、男同士とすることであまり肉欲的になることなく、美しく描き出すことが可能となるのではないか。

森茉莉さんの「恋人たちの森」を読んで

いずれにしても、豊かな言葉遣いや表現で、互いの魅力と愛憎を炙り出す森茉莉さんの筆致が見事で、これからも読み伝えられるのに十分な魅力を内包していると感じた。一部、古い言葉でわかりづらいものや、難解な部分はあれど物語を邪魔するほどではなく、読み応えも充分。

1961年に初めて世に出た作品だけれど、現代に置き換えても映像化などさまざまな可能性を秘めた物語であるように思う。


特徴は、登場人物たちの名前。大抵、年上の方が恋人である少年を「通称」で呼んでいる。事実に即しているのかは不明だけれど、本名は別にして年嵩の方が決めた名前で呼び始めることが「秘密」めいた関係を濃く感じさせ「独占欲」を満たすものとして象徴的に用いられているように感じた。


森茉莉さんがどのような意味合いを持ってこのような作品を生み出したのかは分からないけれど、レトロな語り口で展開される恋愛ストーリーはドラマティックで、ミステリーで言えば松本清張のような特定ジャンルの大御所であることは間違いないように思う。

村田沙耶香著「生命式」を読みました。


生命式
村田沙耶香
河出書房新社
2019-10-16



表題作「生命式」を含む12の短編集。

トップにくるのが、表題と同じく「生命式」。

女子社員が集まってお弁当やコンビニの惣菜を広げる会議室。
先日定年退職した「中尾さん」が亡くなったことを聞くなり、女子社員たちは食べる量を調整し始める。
そう、本日行われる中尾さんの「生命式」に備えてだ。

亡くなった人を弔う葬式は今や少数派、その人の肉を食べて生命の誕生を目的として開催される儀式のことを「生命式」と呼び今やすっかり定着した。
その日、専門業者によって整えられた「亡き人の肉」は、大抵味の濃い味噌鍋などにされて振舞われる。
集った男女はその鍋を囲みながら、これという相手を吟味し、双方の意思が合えばコトに及ぶ。
死から生を産むというコンセプトのこの儀式。
出生率が下がり、人類滅亡の危機に恐れをなした人間たちが導いた答えが妊娠出産を家族単位ではなく国単位で支えるということだった。
その一部を担っているのが「生命式」。

主人公である池谷はたった30年ほど前の常識だった「人の肉を食べるなんてそもそも違法だし、非人道的な考え」ということに囚われていて、いまだに生命式に抵抗を感じる1人。

ただそれはごく少数で、小説の世界では、今自分のいる位置が「いまだにそんな考えなの?古いなぁ」と言われるのだ。

読みながら考えた。
もしかしてこれはそんなに突飛な考えでもなくて、人肉を食べる、とか、男女の営みを受精などと呼びあけすけにみんなで口にする、とかそんな具体的なことでなかったとしても、今ある常識は永遠などではなくて、常識は人によっても状況によってもいかようにも変容していくものなのだ、ということだ。

私はもう妊娠を望むような年齢でないせいか、この「亡くなった人を加工してみんなで食べる」という行為に強烈に惹かれた。

どうだろう、自分がそうなったとして・・・うん、美味しく食べて欲しいと思う。味噌味でいいから、そこに胡椒をたっぷり振りかけて欲しい。
そして思い出話かなんかしながら、ちっとも痩せることのなかった太腿なんかを「脂っこいなぁ」などと言われながら食べて欲しいものだ。

この他にも、亡くなった後で骨や爪や皮膚などが再利用されて家具やアクセサリーなどに加工され、高級品として扱われる世界の話、人とは違う食生活をする夫婦とこれから結婚をしようとする偏食の男女の話などが並び、「生命式」の次に面白かったのが、最後を飾る「孵化」。
属するグループごとにキャラクターが豹変し、本当の自分がわからない女の子の話。

そんな馬鹿な・・・と思いつつも、あながちあり得なくもない、この絶妙な加減が村田沙耶香さん節なのだと思う。
作家仲間からはクレイジー沙耶香と呼ばれている、とどこかで聞いたけれど、フィクションの中のクレイジーが際立っているって、とても稀有な存在なのだなと思う。

あまりに世界観が確立しすぎて、時々疲れてしまうけれど短編集は程よくすっと終わってくれて逆にほっとした。あまり疲れている時にはオススメしない。

幡野広志著「ぼくたちが選べなかったことを、選びなおすために。」を読んだ。




ご存知の方も多いと思うけれど、幡野さんはカメラマンであり、末期の癌患者だ。
私が知った時にはすでにそう言う状態だったので、今回初めてどうやって癌が発覚したのかを細かく知れた。
いい知れぬ腰の激痛に見舞われ、整形外科や内科を転々としたけれど原因がわからず、とうとう仕事に支障をきたすまできてようやく、癌ということが発覚。
しかも完治や治療が難しい類の血液癌であることがわかった。
2017年時点で宣告された余命は3年。

数えてみると、もういつ亡くなってもおかしくない状況だ。一時期は歩行も困難だった腫瘍を治療するのに放射線治療を限界まで行ったせいで、今後痛みを取る有効な治療は見込めない。


TED×Hamamatsuでのスピーチや、



cakesでの「なんで僕に聞くんだろう」と言う相談コーナーでの受け答えなど精力的な活動をみる限り、



余命わずかの癌患者と言われてもあまりピンと来ないのだけれど、回答の文章などを見ると時に冷たいと思えるほどの鮮やかな切り口の言葉や、冷静に相手を分析できるような鋭い視点、そして相談者側に寄り添った意見など、引き出しがいくつもあるのだなと思えてきて、それが癌発覚からの経験値も大きく作用しているのかなと思わせる。

癌が発覚するとまず、本人の動揺もおさまらないうちに、周囲からの思いもよらない言葉に戸惑ったり傷つけられたりする。
周囲は「奇跡を信じ、家族のために尽くす、癌患者らしい」態度を求め、本人の望まない形での闘病を強いてくる。
そして本人の落ち度、家族の無関心をことさらに責めたて、原因を探って落ち着こうとする。

幡野さんはまず、選べない親との関係を病気発覚以来捨てた。
もちろんそこには理由があって、彼が一番守りたい、大事にしたいのは「彼自身の選択によって作った」家族である、妻と息子のみだったからだ。

親孝行をする、いい子になる、これは子供にかけられた呪い。
人が精一杯すべきなのは「自分が幸せと思える選択をして、実際に幸せになること」であり、親の望む人生を送ることでも、周囲から期待される人物になることでもない。

本書の中で彼は、自分の罹っている癌を調べ、末期の症状が壮絶であることに覚悟を決め、「安楽死」も視野に入れていると書いてあった。
これについては慎重に協議がなされなければならないのだけれど、望むように死ぬことは望む生き方を求めると言うこと。
実際に病気になった時に思うことが必ずしも、健康な時に考えたこととは違うかも知れないけれど、自分の意識も考えも自分のものだとはっきり自覚できる時に、考えねばならない問題なのかも知れない、と感じた。

先日読んだ、こちらの小説は安楽死が合法化された日本を描いている。
安楽死についてのイメージが湧きやすい。

平成くん、さようなら
憲寿, 古市
文藝春秋
2018-11-09


 
そして幡野さんが「選べない家族」「選んだ家族」として語っていたことは、その前に読んだ、山本文緒さんの「なぎさ」が思い出された。

なぎさ (角川文庫)
山本 文緒
KADOKAWA
2016-06-18

 
家族の呪縛から逃れられない姉妹の前に現れる、何にも囚われず生活の基盤すら持つことを拒む男が言い放った、「人生の登場人物を変える」と言う言葉の意味をまた考えた。


自分で選択することを妨害してくる人たちは、「恩返し」など都合の良い言葉で呪縛に導いてこようとする。
迷わずに捨てて構わない、自分が自由に選べない人生など自分の人生とは言えないから。

1人で生きるにせよ、家族を持つにせよ、他人の意見や血縁という繋がりに影響されない人はいない。
それでも時には勇気を持って、断ち切る選択をする必要もある。

いろんなことが繋がってきて、読むもの触れるものに運命を感じてしまう。
時間もあることだし、いろいろ考えるいいチャンスなのかも知れない。 

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